2012年3月28日水曜日

東西アヘン(阿片)の文化史


1.アヘン(阿片)の文化史(西洋)

 ケシPapaver somniferumは地中海東部の小アジア地方が原産地といわれ、その未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものを生アヘンraw opium gumという。今日では、とかく否定的なイメージで見られがちであるが、アヘンは今日でも医薬原料としてもっとも重要なものの一つである(→植物起源医薬品及びアヘンの化学を参照)。人類がいつからケシ・アヘンの価値を見出し利用してきたのか興味のもたれるところであるが、少なくとも紀元前をはるかにさかのぼるような考古学的遺物はまだ発見されていない。にもかかわらず、文明が発生してから間もない数千年前からアヘン・ケシが知られていたと記述する専門書は少なくない。植物としてのケシは、あれほどよく目立つ花をつけるのであるから、相当古くから知られていたとしても不思議はないが、これを医薬として用いること、とりわけアヘンの使用は高度の知識の集積が必要であるので、通説をそのまま受け入れること� ��承伏しかねる。一応、それを示唆する考古学的資料が呈示されているものの、いずれも間接的な推測に基づくものであって、確実といえるほどのものではない。たとえば、現在のバクダッドの南部から発掘された約5000年前の粘土板に、楔形文字でケシの栽培やケシ汁の採集に関する記述があるとか、また、ニューヨークメトロポリタン美術館の古代アッシリアのギャラリーにあるレリーフにはケシの実の束をもつ女神の天使が描かれている云々などがその例である。前者は、古くから栽培される植物は数多くあるし、薬用に液汁を採取する植物もケシ以外に多くあるから、果たしてそれが一義的にケシと特定できるのか疑問がある。後者についても、美しい女神がケシの花ではなく何の変哲もない実をもつというというのはミスマッチで� ��るから、ケシの実の乳液(アヘン)に不思議な魔力を持つことが知られていた証拠という風に説明されることが多い。そもそもレリーフに描かれた画は写実的とはいえず、ケシの実とするには甚だ心許ないものである。したがって、以上のいずれも参考程度にしかならず、学術資料として確固たる証拠とはいい難い。しかし、欧米では以上のことは既定の説とされ、あたかも史実であるかのように語られることが多い。これから欧米で通説とされていることを述べるが、以上述べたことをふまえて吟味する必要があることを申し上げておく。
 一説ではメソポタミアでシュメール人による栽培がもっとも古く、Hul Gilすなわち"歓喜・至福(Gil)をもたらす植物(Hul)"を意味するものがケシであるという。後に、アッシリア・バビロリアにもケシは伝えられ、アッシリア人がaratpa-palと称していたものはケシの乳液すなわちアヘンであるという。植物分類学上のケシ属を表すラテン名Papaverの語源はこのアッシリア名に因んでつけられたものである。ケシはエジプトにも伝えられ、ツタンカーメン王時代には国中がケシ栽培であふれていたといわれるが、宗教者・魔術師・兵士以外には知れわたっていなかったらしい。古代エジプトの知恵・学問・創造の神トトはアヘンを死に至らしめるものと諭し、一方、女神イシスは太陽神ラーの頭痛を治すためアヘンを用いたといわれる。アヘンのラテン名Opium Thebaicumおよびアヘンアルカロイドの一つテバイン(Thebaine)のいずれの名も古代エジプトの町Thebesに由来するが、記録には残っていないにもかかわらず、アヘンが古代エジプトで薬物として広く知られていたとしてつけられた。そのほか、紀元前9世紀にHomerosが著わしたギリシア時代の叙事詩『オデュッセイア(Odyssea)』に出てくるネペンテスをアヘンと解釈することがある。ネペンテスはTheophrastus (ca.372 - ca.287 BC)『植物誌(Historia Plantarum)』やPlinius (22 - 79 AD)『博物誌(Naturalis Historia)』などにも引用され、怒りや悲しみを和らげ、災いを忘れさせ、それを感じさせないようにすると記述されている。古代ギリシアの宗教は多神教であったことが知られているが、眠りの神Hypnos、夢の神Morpheus、夜の神Nyx、死の神Thanatosはいずれもネペンテスに由縁があるといわれる。アヘンの主成分モルヒネ(Morphine)は夢の神Morpheusに因んでつけられた。しかし、これだけでネペンテスをアヘンと考定するには論拠として薄弱で、いずれも推測の域を出ないと考えるべきである。
 古代ギリシアの著名な薬学者にTheophrastusがいる。偉大な哲学・科学者であったAristoteles (384-322 BC)の後継者であり、当時の薬用植物について記載した著作『植物誌(Historia Plantarum)』が今日に伝わっている。この中の"薬効のある植物液汁"の項にメコン(Mekon)の名があり、頭花(頭果の誤りか?)から汁を採るのはメコンに特有であると記述している。メコンは『植物誌』以外に、紀元1世紀ころ、ギリシアのDioscorides (ca.40 - ca.

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90 AD)が著わした『薬物誌(de Materia Medica)』にもMekon Agriosを始め、この名を冠した数種の薬用植物が収録されている。今日の水準からすれば稚拙であるが、一応ケシとわかる図も掲載されている(原本は伝存せず、後世の写本にあったものであるが)ので、メコンはケシあるいはそれに類縁のケシ科植物と考えて全く矛盾はない。したがって、文献上のアヘン(ケシ汁)の確かな初見は『植物誌』としてよく、紀元前4世紀ころとなる。"医学の父"として著名なHippocrates(ca.460 - ca.377 BC)は迷信を徹底的に排除して治療を行った伝説の名医として知られるが、アヘンの麻酔、鎮静、収斂作用が病気の治療に有効であることは認めていたといわれる。アヘンの製法については、Dioscoridesがケシ坊主(右画像の右半分参照;未熟果実を日本語ではこう俗称するが、英語ではcapsule又はpodといい、fruitとはいわないようである)に傷をつけて滲み出る乳液を集めるという方法を詳述している。アヘンは英語でopiumと称するが、その語源は古代ギリシア語opionであり「汁(poppy juice)」を意味するものであった。後にケシ坊主に何度も傷をつけて出る乳液をとことん搾り取って集め乾燥したものをアヘンOpiumと称するようになった。右画像の左部は乳液を集めて乾燥したもので表面は真っ黒であるが、中はむしろ白っぽく粉末にすると白灰色になる。Dioscoridesのアヘン採集法は、ケシに含まれるモルヒネなどの麻薬成分のごく一部を取り出すにすぎず、化学成分の収量という観点からは効率の悪い方法であった。しかし、もともと、ケシ中の麻薬成分含量は高くない(通常の品種では0.3〜0.
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5%)
ので、それが濃縮した状態(植物体に比べて数百倍以上)で得られるアヘンは長い間生薬あるいは医薬原料として有用なものであり、今日でも生アヘンの採取にはDioscoridesの記述した方法が踏襲されている。Dioscoridesはケシ坊主を砕き圧搾して絞り出した液汁から製したメコニウム(Meconium, 語源はギリシア語のmek onionに由来する)についても記載している。メコニウムはアヘンより効力は弱いのであるが、収量はずっと多く欧州で実際に薬用とされたものの多くはメコニウムだったと思われる。今日のアヘンの原型はDioscoridesの時代には既に完成していたのであり、その後、2,000年以上にわたって世界の各文明圏の間で主要な貿易品目として君臨してきたことはおどろくべきことである。米国人作家Norman Taylor ( 1883 - 1967)の表わした「世界を変えた薬用植物(Medicinal plants that changed the world)」の中でケシこそその題名にもっとも相応しい薬用植物ではなかろうか。
 さて、アヘンの麻薬作用は今日では広く知られているが、古代にあってはアヘンを何の目的に用いたのであろうか。Dioscoridesの『薬物誌』では、ケシの葉・頭果の煎汁を温湿布すると催眠効果があり、睡眠不足の時には飲用するとよいと記されている。一方で、マメ(大槻真一郎訳ではレンズマメとする)一粒ほどを服用すると、鎮痛、催眠、消化促進、咳止め、腹部疾患の治癒などの効果があり、多量に服用すると昏睡や死を招くとも記述している。この記述の前文はケシの種子について言及するが、ほとんど無毒のケシの種子にそのような作用があるとは考えられないので、マメ一粒の量とはアヘン以外には考えにくい。この推論が正しいことは、Pliniusの『博物誌』に、ケシの萼を砕いて葡萄酒に入れたものを飲むとよく眠れるとか、ケシの汁(オピウム)は催眠作用があるが、多量に服用すると死に至る、あるいはDiagorasやErasistratus(古代ギリシアの医師・哲学者という)はアヘンを死を招く薬とし全く悪しきものと見なしたと記述されていることからわかる。Dioscoridesがアヘンの用法について具体的に記述せず、ケシ液汁、同エキスを湿布薬あるいは座薬として用いるとしているのは、古代でもアヘンはごく少量で効果がある一方で、時に死を招く危険な薬であることを間接的に警告しているともいえるのである。アヘンは、古代ヨーロッパ文明が作り出した薬の傑作ともいえるのであるが、その使用には多くの危険を伴う故に繁用されるほどのものではなかった。その証拠に、Dioscoridesの時代から近世に至るまでの1500年もの間、歴史の表舞台から遠ざかっていたという事実がある。中世の欧州は、魔女狩りや宗教裁判の嵐が吹き荒れ、政治・経済・文化 のいずれもが沈滞したことも理由の一つに挙げられるかもしれない。ヨーロッパが沈滞していたとき、この地球上でもっとも栄華を誇っていたのはイスラム文明であった。当時、その文明の中心であったアラビアはアヘンをヨーロッパから受け継ぎ、アラビア医学に取り込んだが、意外なことに鎮痛催眠薬としてではなく止瀉薬として珍重され、赤痢などの特効薬とされたのである。アヘンが長い眠りから醒めて、再び欧州の歴史の表舞台に登場したことを象徴する文学作品がある。William Shakespeare (1564-1616)が1602年に発表した四大悲劇の一つ『オセロ(Othello)』の一場面で、深い眠りを得るため飲んだという" drowsy syrup"は今日いうアヘンチンキのことである。これ以降については別ページの「世界史における麻薬アヘンの光と陰」に説明を譲るとする。


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2.アヘン(阿片)の文化史(中国)

 地中海東部の小アジア地方を原産地とするケシは世界各地に伝播したが、インド・中国ほかアジアに伝わったのは紀元以降のことである。中国の本草書にケシの名が初見するのは973年の『開寶新詳定本草』である。同書は散佚して今日ではその記述内容を知るべくもないが、幸いなことにそのほぼ全内容が、『嘉祐補註本草』(掌禹錫、1060年)、『圖經本草』(蘇頌、1061年)を経て、『證類本草』(經史證類大觀本草と重修政和經史證類備用本草の2系統が伝存)に継承されているので、その記述によって中国でどのように扱われたのか知ることが可能である。甖子粟(えいしぞく)(別名を象穀(しょうこく)・米嚢(べいのう)・御米(ぎょべい)ともいう)の名で収載されているのが今日のケシに相当する。甖子粟の名の由来は、果実(ケシ坊主)が「かめ」に似ているとして甖の字が充てられ、種子がアワ(粟)に似ていることによる。後に甖は字体の似た罌に転じて罌子粟(おうしぞく)、罌粟(おうぞく)となった。また、同書では唐代の本草家陳蔵器(8世紀の人で、『本草拾遺』を著したが散佚して伝存しない)を引用して「甖子粟花は四葉にして淺紅の暈子有り」と記述している。四枚の花弁に薄いピンク色のくまのあるケシ花の特徴を表したもので、『本草綱目』(李時珍、1590年)にも同内容の記述がある。また、晩唐の詩人雍陶(9世紀の人)の詩「西に帰り斜谷より出づる」に「険桟を行過ぎて褒斜を出でて、平川に出尽せば家に到るに似たり。無限の客愁今日散じて、馬頭に初めて米嚢花を見る」とあって、ケシの別名である米嚢花が出てくるほか、『全唐詩』巻七百八十五の無名詩人の歌「石榴」では罌粟の名が出てくる。したがって、唐代にはケシが伝えられていたことは確かである。一方、唐の国選本草書『新修本草』(蘇敬、659年)にその名はないので、ケシは7世紀後半以降に唐にアラビア経由で伝えられたと考えられている。李時珍は「江東の人、千葉なる者を呼びて麗春花と爲す。或は是を罌粟の別種と謂ふ。葢し亦た然らず。其の花變態ありて本(もと)自ずから常ならず。(中略)豔麗なるに愛すべし。故に麗春と曰ふ。又、賽牡丹と曰ひ、錦被花と曰ふ」と述べており、麗春花ほか数名をケシの異名としている。麗春花の名は盛唐の詩人杜甫(712-770)の「麗春」に「百草春華を競ひ、麗春應に最も勝るべし」と詠われているが、後世においてこの名を継承するのはケシではなく同属別種のヒナゲシである(『廣群芳譜』ほか)。したがって、唐宋時代の詩にある当該の異名はケシではなく、いずれもヒナゲシほか同属各種であって、もっぱら園芸用に栽培されたものである。『證類本草』で甖子粟が収録されているのは巻之二十六「米穀部下品」であり、ケシの種子を基原とするもの(アルカロイドを含まず食用になる)であって、アヘンやケシ殻ではないないことに留意する必要がある。
 本来の薬用部位たるケシ殻の中国本草における初見は1505年の『本草品彙精要』(劉文泰等)、アヘンは1590年の『本草綱目』で阿芙蓉別名阿片として初めて登場し、これらは紛れもなく純粋に薬用とされた。唐代の医学書および宋代になって992年に成立した『太平聖恵方』(王懐隠撰)には見当たらないが、『聖濟總録』(1111年〜1118年)に萬灵湯という罌子粟・甘草からなる処方が収載され、「赤白瀉痢、腹藏疼痛、裏急後重を治す。併せて疝氣を治す」と記載されている。薬用部位を記していないのであるが、『本草品彙精要』に「粟殻(=罌粟殻)、性澁にして洩痢を止め、腸を澁る」(同本草ではこれを『名醫別録』の引用とするが誤りである)とあり、ケシ種子の薬効とは大きく異なるから、ケシ殻と考えて間違いない。また、ここに裏急後重という中国医学独特の表現が用いられているが、裏(腹の内部)が急迫(痛むこと)して便意を催すも後(肛門部)が重たく感じられ排便が進まない状況をいう。赤痢・疫痢など感染症において起きる病症であって、罌粟殻・アヘンに含まれるモルヒネは大腸の蠕動を抑制する作用があってこれを改善する効果がある。1151年の『太平惠民和劑局方』巻六『瀉痢門』に収載する全処方のうち、4分の1に相当する15方に罌粟殻が配合されている。このうちの8割に相当する12方に「裏急後重を治す」とあある。次にその代表的な処方を挙げておく。


罌粟湯
 腸胃氣虚して冷熱調はず、或は飲食生冷内に脾胃を傷り、或は飲酒過度して臍腹㽲痛、泄瀉腸鳴の下痢、或は赤或は白の裏急後重し、日夜頻併、飲食減少及び腸胃濕を受け膨脹虚鳴下ること豆汁の如く、或は鮮血を下すを治す。
  罌粟殻去蒂蜜炙肆兩 艾葉去梗 黒豆炒去皮 乾薑 陳皮去白 甘草炙各貳兩

御米湯
 久しく痢疾の或は赤或は白を患ひ、臍腹㽲痛、裏急後墜して發歇時無く日夜度無く、及び下血已まず、全て食を入れざるを治す。
  罌粟殻蜜炙 白茯苓去皮 甘草炙各伍兩 人參去蘆 乾薑炮各貳兩半 厚朴去麄皮薑製炒拾兩

そのほか、1132年の『本事方』(許叔微)、1196年の『百一選方』(王璆)、1264年の『仁斋直指方』(楊士羸撰)、1281年の『衞生寶鑑』(羅天益)、1337年の『世醫得効方』(危亦林)など、金元医学書も含めて、多くの医書に罌粟殻を配合する処方が収載されている。1403年〜1424年に成立したとされる『普濟方』(明・朱橚)では実に107方も収録されている。このように宋代末期から金元時代を経て明代に至るまで、ケシ殻・アヘンの使用は着実な広がりを見せたのであるが、『本草綱目』に「俗人、房中術に之を用ふ。京師に一粒金丹を售る。云ふ、百病に通治すと。皆、方伎家の術のみ」とあるように、セックスのような享楽目的にアヘンを使用するのが流行し始めたことを示唆している。アヘンを過剰に服用するといわゆる麻薬� �状が現れて多幸感を味わうことができるから、享楽目的の使用が加速したと思われる。1765年の『本草綱目拾遺』(趙学敏)第二巻『遺火部』に鴉片烟(あへんえん)という『本草綱目』にはなかった飲煙方の一方が収載されている。飲煙方は薫薬と称する薬材を燃焼させて煙を吸引する薬方であり、唐代を代表する医書『外臺祕要』(王燾撰、752年)にも咳を治療するための飲煙方がいくつか収載されているように、中国では古くからあった薬方である。この薬方は中国医学では傍流であって決して広く普及していたわけではないが、『本草綱目拾遺』に「胃脘痛を主治す。神效なり」と記述されているように、清代中期にはアヘンが薫薬として用いられるようになった。一方で、同書は「一二次吸へば、後刻離るること能はず。(中略)肢體萎縮し臟腑潰出して身を殺さざるに止まず云々」とその危険性についても詳述しているが、西洋から渡来した煙管(きせる)を用いた喫煙法(本来はタバコを吸引するためのものであるが、中国でアヘン吸引の道具に転じた)が普及すると、アヘンのもつ潜在的な魔性が牙をむきはじめることとなった。アヘンの喫煙は内服より格段に強い多幸感や耽溺性をもたらすので、当時の中国人は次第に医療用から離れて享楽目的にアヘンを用いるようになり、19世紀の中国では深刻なアヘン禍が起きることとなったのである。

3.アヘン(阿片)の文化史(日本)

 日本にケシが伝わったのはいつであろうか。文献上では、鎌倉時代に成立した医書『頓醫抄』(梶原性全著、1302年)に罌粟の名があり、「殻ウラヲコソゲ、スニ浸シテヤブレ」という記述がある。江戸時代の民間医書『農家心得草藥法』に「曹洞の祖道元禅師の方に、赤白痢止らざるを治す、罌粟壳二匁 烏梅四匁梅干をやきてよし 棗六匁 甘草二匁 生姜二匁 煎じ用ゆべし」とあって、道元禅師より伝承されたと称する薬方が収載されている。鎌倉時代では僧が医師を兼職する例が非常に多く、その可能性は低くない。また、室町時代を代表する医書『有林福田方』(有隣著、1363年頃)巻之八「瀉痢」に「又云罌粟殻 石榴皮 呵子 肉豆蔲 右ノ諸藥ハ止澁ノ劑ナリ。殊ニ不知者ハ痢疾ハ多ク飮食ノ停滞ニヨルト云コトヲ尤モ先ヅ巴豆等ノ劑ヲ以テ其積滯ヲ推シ、腸胃導滌シテ然後ニ爲之ガ法ニ治スヘキナリ。又云罌粟殻ハ其ノ性緊澁ナリ。(中略)又云罌粟殻ハ痢ヲ治ニ服ハ如神ノ但シ性ハ緊澁多ク嘔逆セシム故ニ人畏テ取テ服セズ。今ハ醋ヲ以テ製シ烏梅ヲ加テ用之其法ヲ得タリ」とあり、当時の日本で実際に罌粟殻を用いたことを示唆する記述があり、また治方とし て『太平惠民和劑局方』の罌粟湯・金粟湯・眞人養臟湯など罌粟殻を配合する薬方を引用して記載している。罌粟殻を中国から輸入して用いた可能性も否定できないものの、鎌倉時代から細々ながらわが国でケシが栽培・利用されていたことは十分にあり得るだろう。通説ではケシ・アヘンが日本に渡来したのは戦国末期から江戸初期とされているが、これとて確固たる根拠があるわけではない。わが国初の絵入り百科事典ともいうべき『和漢三才圖會』(寺島良安、1713年頃)巻第百三「阿片」に次のような記述がある。


赤白ノ久痢ヲ治ス。阿片、木香、黄連、白朮 各等分研リテ末トス 分飯ニテ小豆大ニ丸シ 壮者ニハ一分老幼ノ者ニハ半分 空心ニ米飲シテ下ス 酸物生冷ヲ忌ミ油膩茶酒麪無シ 止マザレバ一方其花未ダ開カザル時、外ニ両片青葉有リテ之ヲ包ム。花開ケバ即チ落チ、収取シテ末ト爲ス 毎米飲服一銭 神効ナリ 赤痢ニハ紅ノ花ノ者ヲ用フ白痢ニハ白花ノ者ヲ用フ 又一粒金丹有リ 阿片一分粳米ヲ用テ之ヲ丸ス 京師ニ之ヲ售リテ云フ百病ヲ通治スト 醫鑑ニ詳カナリ
阿片ヲ用テ痢ヲ治スル藥、如神丸一粒丸等有リテ万之ヲ售ル

ここにある如神丸とは当時の売薬であり、今日の大衆薬に相当すると考えればよい。『本朝食鑑』(人見必大著、1695年)によれば、如神丸は「阿芙蓉一錢 黃柏 黃連 没藥各五分 神麯 沈香各二分」を丸めて辰砂(硫化水銀)でコーティングした丸薬で、通称を「赤玉はら薬」という。今日でも同名の家伝薬が販売されているが、アヘン・辰砂は含まない。江戸時代から明治時代にかけて、生薬の組成の異なる類品が数多くあったようで、別名を冠するものもあった。その一つに調痢丸というのがあり、『芥川龍之介書簡集』に「調痢丸をのみてより以来の便今日を以て漸く通じ五日ぶりのうんこを時にひり出し快絶大快絶に御座候」と出てくるように、腹下り薬として昭和初期まで販売されていた。一粒金丹とは、李時珍の『本草綱目』に出てくる薬方名で、アヘン(阿芙蓉)一分を粳米とともに搗き混ぜて製した丸薬をいう。これを独活湯とともに服して百節痛に用いるという風に、様々な処方に配合して用� �たらしい。如神丸はこの影響を受けて作られた売薬のようである。しかしながら、幕末の有力漢方医家浅田宗伯(1815-1894)は、如神丸を「痢を療する一種の奇方」とみなし、約850の古方・後世方の処方を収録する『勿誤薬室方凾』にはアヘンや罌粟殻を配合する処方はないから、麻薬成分を含む薬物に非常に冷淡であったことを示している。これは宗伯に限ったことではなく、吉益東洞(1702-1773)を始め、江戸時代中後期の日本漢方で主流派であった古方派医家でアヘン・罌粟殻を受容した医家はほとんど皆無であった。これとは対照的に江戸時代に出版された民間医療書には相当数の処方が記載されている。例えば、『妙藥博物筌』(藤井見隆、18世紀前半)には次の一方を含めてケシ殻・アヘンを配合する処方を10方も収載する。

瀉泄(くだりはら)止藥(とめくすり)
罌粟弍両 干姜壱両 木香壱両 甘草少し 肉豆蒄壱分 黄連壱両 厚朴 壱両塩水に浸し炙る 黄檗壱両 古米十二粒
右各粉にし飯湯にて用 按ニ右方脾瀉日久者ニ用ユベシ

このほかに『妙藥奇覧』・『妙藥奇覧拾遺』・『妙藥手引草』・『此君堂藥方』(以上各1方)、『農家心得草藥法』(3方)・『和方一萬方』(10方)などにケシ殻などを含む処方がみられ、江戸時代の民間医療ではアヘン・ケシの使用はさほど躊躇しなかったことがわかる。また、徳川吉宗(1684-1751)が本草学者丹羽正伯(1691-1756)に命じて編纂させた啓蒙医薬書『普救類方』(1729年)にも罌粟殻を用いる薬方がある。以上述べた民間療法に比べると、古方派・後世方派など流派を問わず漢方医家のアヘン・ケシ殻に対する消極的な姿勢は際立っているといえるだろう。日本では、江戸後期にコレラが上陸し、1858年に大流行したが、赤痢よりはるかに激しい瀉下(暴瀉)を起こし、放置すれば深刻な脱水症状となるので、止瀉が治 療上もっとも重要である。アヘンを用いない漢方医学にはこれに対する有効な処方があるはずはなく、アヘンの使用に長けた蘭方(西洋医学)は着実に実績を挙げたといわれる。赤痢などそのほかの細菌性痢疾も江戸時代を通して散発的に流行しているが、ここでも止瀉の特効薬をもたぬ漢方医学が無力であったことはいうまでもなく、これが明治維新において漢方医学の命運を決することとなったのである。明治政府は1874年に医制を制定交付して正規の医学として西洋医学のみを採用し、漢方医学の存続を認めず、ここに廃絶となったのである。

 本ページに密接に関連する内容は、社団法人日本薬学会『ファルマシア』第46巻9号(2010年9月1日発行)851頁〜855頁に「アヘンの文化史 日本と中国」として掲載されています。また、第54回日本薬学会関東支部会(2010年10月2日、東京薬科大学)において、口頭発表(演題「江戸時代の医療におけるアヘン・ケシ事情」)しました。



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